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東京地方裁判所 昭和46年(合わ)291号 判決

主文

被告人を懲役一年六月に処する。

未決勾留日数中九〇日を右刑に算入する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、

第一  昭和四六年八月一日午前零時三〇分ころ、東京都渋谷区宇田川町二七番四号先道路において、運転中の普通乗用自動車を佐賀胤文運転の普通乗用自動車に衝突させて同車を損壊する交通事故を起こしたのに、その事故発生の日時・場所等法律の定める事項を、直ちにもよりの警察署の警察官に報告しなかつた。

第二  前同日午前零時四〇分ころ、同町二九番二号先道路において、前記自動車を運転して逃走中一時停止した際、被告人運転の車を追いかけてきた前記佐賀運転の車の同乗者佐賀有子(当時二一年)から、前記事故についての話合いのために降車を求められるや、このままでは警察署に同行され、酒気帯び運転と接触事故などにより処分を受けることになると考え、とつさにその場から逃走しようと決意し、同女が自車助手席左側のドアの取つ手を握つているのにこれを無視して発進し、同町二九番八号先交差点を時速約三〇キロメートルで左折し、このため同女が左片手で前記取つ手を握り車体に接触してぶらさがつているのを知りながら、加速して逃走すれば同女が危険を感じて手を放すか、あるいは同女を振りはなせるであろうと即断し、自車の速度を時速約四〇キロメートルにまで加速して同町三六番四号先路上まで約二〇〇メートルの間走行し、同所において、同女をしてやむなく手を前記取つ手からはなさせて右路上に転落させ、よつて同女に約一か月間の入院加療を要する頭部打撲症等の傷害を負わせ、

第三  前記第二記載のように、同町三六番四号先道路において、運転中の前記自動車から佐賀有子を転落させて傷害を負わせる交通事故を起こしたのに、直ちに運転を停止して同女を救護し、道路における危険を防止する等法律に定める必要な措置を講じないで逃走し

たものである。

(証拠の標目)〈略〉

(殺人未遂の訴因について未必的殺意を認めなかつた理由)

一、本件第二の訴因の要旨は、「被告人は、判示の日時、場所で、普通乗用自動車を運転して逃走中一時停止した際、佐賀有子から、判示第一の事故につき話合いのために降車を求められるや、同女が自車助手席左側ドアの取つ手を握つているのに、これを無視して発進走行し、同女を自車から振りはなすため判示交差点で時速約三〇キロメートルで大きく左転把して左折し、このため同女が左片手で右の取つ手を握り、車体に接触して足を地上からはなし、自車体にぶらさがる状態となつたので、もしこのような状態の同女を自車から振り落とせば、その際の衝撃等によつて同女が死亡することがあつても、逃走のためにはやむをえないと決意し、漸次速度をあげて遂に時速六〇キロメートルにまで加速して判示路上まで約二〇〇メートルの間走行し、同所において、同女を路上にに転落させたが、同女に加療約二か月間を要する頭部打撲症等の傷害を負わせたにとどまり、死亡させるに至らなかつた」というのであるが、これに対し当裁判所は、右の未必的殺意を排斤して判示第二のとおり傷害の事実を認定したので、以下この点について判断を示すこととする。

二、被告人の未必的殺意の点はしばらく措き、その余の訴因事実が認められるか否かについてみると、前掲各証拠(判示第二の事実に関するもの、以下同じ)を総合すれば、結局、判示第二の事実を認定することができる。

もつとも、訴因のうち(1)「漸次速度をあげて遂に時速約六〇キロメートルにまで加速し」という点については、被告人の昭和四六年八月九日付検察官に対する供述調書中に「相手の女の人が車から落ちたときには時速六〇キロメートル位のスピードがでていたと思う」旨の供述記載があり、また、被害者佐賀有子の夫である佐賀胤文は当公判廷で「被告人の車が妻を引きずつて走り出したので、自分も自動車に乗つてこれを追跡し、途中一五ないし二〇メートルの間隔で追うようになつてから自車のメーターを見ていたが、時速五〇キロメートルから六〇キロメートル位であつた」旨を証言し、証人羽成利夫(渋谷警察署宇田川派出所勤務の警察官)も当公判廷で「被告人運転の自動車を派出所の前で目撃したが、その速度は最高時速六〇キロメートル位であつた」旨の供述をしているので、検察官の主張にそう一応の証拠は存しているものといわなければならない。しかし、前掲各証拠によると、(イ)被害者佐賀有子が被告人運転の車から転落した際、被告人の車を追つてきた佐賀胤文運転の車は直ちに急制動をかけて停車したので、現場にその車のスリップ痕があつたこと、(ロ)右のスリップ痕は本件犯行直後に行なわれた現場の実況見分の際、調書作成のための下図に記載されたが、その長さについては測定されなかつたこと、(ハ)その後の昭和四六年一二月四日右の下図に基づき現場でスリップ痕の測定をしたところ、左側が11.45メートル、右側が11.73メートルであつたこと、(ニ)佐賀胤文運転の車は、マツグカペラ・グランドスポーツロータリークーペであつて、同車の制動距離(ただし、ブレーキを踏んでから停車するまでの距離。以下同じ。)は、乾燥コンクリート路面でのテスト結果によると、時速六〇キロメートルで15.5メートル、時速五五キロメートルで12.5メートル、時速五〇キロメートルで10.5メートル、時速四五キロメートルで8.5メートル、時速四〇キロメートルで6.08メートルであり、乾燥アスファルト路面の場合には、これに摩擦係数の比である七分の九を乗じたものであること、(ホ)したがつて、右車両の乾燥アスファルト路面における制動距離は、六〇キロメートル毎時で19.9メートル、五五キロメートル毎時で16.1メートル、五〇キロメートル毎時で13.5メートル、四五キロメートル毎時で10.9メートル、四〇キロメートル毎時で7.82メートルであること、(ヘ)本件現場は当時乾燥アスファルト路面であつたことが明らかであるから、道路の摩擦係数を0.55、道路勾配を〇%として、前記スリップ痕の長さの左右平均値11.59メートルに基づいて算出すると、佐賀胤文運転の車の速度は約四〇キロメートル毎時と推定されること、の諸事実が認められるので、前記スリップ痕の長さの正確性について、その測定の経緯からみて万全の信を措きがたい点があるにしても、前記制動距離並びに右スリップ痕からの車速の推定結果等を総合すると、検察官の主張するような高速度と認定するには多分に疑いがあり、また、(2)「被害者に加療約二か月間を要する頭部打撲症等の傷害を負わせた」という点についても、前掲証拠によると、その傷害の程度は判示のとおり約一か月間の入院加療を要するものと認めるのが相当である。

三次に、未必的殺意の点であるが、まず被告人の供述についてみると、なるほど昭和四六年八月一日付司法警察員に対する自首調書中には「勿論このときは女が車にぶらさがつたままでいることを知つており、私が振り落せば死んでしまうかも知れないと思つたが、夢中だつたのでそんなことをしてしまい、道路に女を倒してしまつた」旨の供述部分があり、また同日付司法警察員に対する供述調書(ただし、現場見取図添付のもの)中にも「こんな状態で女を引きずつているのですから、もし車から落ちたり他の車と女が接触すれば、場合によつては死ぬかも知れないという意識は十分に持つており、また女が転落したり、私が振り落せば、後続車によつて轢殺されることもあるということも知つていた」旨の供述部分があり、右各供述はいずれも強制、脅迫等によるものではなく、任意になされたものと認めることができる。しかし、他方では、被告人の昭和四六年八月九日付検察官に対する供述調書中には「その当時は速度をあげれば相手が手をはなしてくれると思い、徐々に速度だけをあげていたもので、そのことによつて振り落してやろうというまでの気持は持つていなかつた」「そのときは相手の女の人が手をはなして車からはなれれば逃げられるという気持が先に立つて夢中でしたから、相手が手をはなして落ちても死ぬというようなことまでは考えておらず、多少はけがをするかも知れないが、大したことはないだろうと思つた。そして多少けがをするにしても、逃げられるものなら逃げたいという気持が先に立つており、今になつて考えれば、なぜそのような恐ろしい気持になつたのか、自分でも不思議に思つている」旨の、また同月一〇日付検察官に対する供述調書にも、同趣旨の未必的殺意を否定する記載があるので、これに被告人の当公判廷における弁解を考えあわせると、右の未必的殺意を肯定する前記供述の信用性については、さらに本件犯行に至る経過、犯行の状況等諸般の事情を検討したうえ、慎重にこれを判断しなければならない。

四、そこで、本件犯行に至る経過、犯行の状況、その際の被告人の心理状態等について検討する。

前掲各証拠を総合すると、(1)被告人は、渋谷区宇田川町二七番四号先交差点で、佐賀胤文運転の普通乗用自動車と接触事故を起こした直後、同人と付近の派出所で右事故につき話合いをするため、同人運転の車について派出所に向う途中、同町二六番不二家菓子店前交差点に至るや、とつさにこのまま同所から逃げてしまおうと考え、同所を左折して逃走したが、同町二九番二号先路上で駐車車両や対向車両があつたため一時停止したこと、(2)そのとき、後方から追いかけてきた前記佐賀運転の車の助手席に乗つていた同人の妻有子(以下被害者という)が車から降りてきて、被告人の運転する車の左助手席側ドアの前に立ち、窓越しに「話があるから降りて下さい」と言つて被告人の降車を要求しながら助手席側ドアの取つ手を左手で握つてドアをあけようとしたが、ドアはあかなかつたこと、(3)被告人は、ここで下車すると、被害者らに派出所へ同行され、酒気帯び運転や接触事故などで処分を受けることになると考え、被害者には返事もせず、被害者を無視して同所を発進し、被害者が左手を前記取つ手にかけたまま車にひつぱられるようにして大またで走つているのをバックミラーで認めながら、時速約一五キロメートルの速度で同町二九番八号先交差点に向つて運転進行し、同所で時速約三〇キロメートルに加速しながら左転把して左折したこと、(4)このため、被害者は左手で前記取つ手を握り、車体に接触してぶらさがる状態になつていたが、被告人は、加速して逃走すれば被害者が危険を感じて手を放すか、あるいは被害者を振りはなせるであろうと判断し、自車の速度を時速約四〇キロメートルにまで加速して同町三六番四号先路上に至つたこと、(5)このとき、被害者は、これ以上取つ手につかまつていて振り落されると、大けがをするか、あるいは死ぬかも知れないから早目に落ちた方がよいと思い、やむなく前記取つ手から手をはなして右路上に転落したため、判示のとおりの傷害を負つたこと、(6)前記宇田川町二九番二号先路上から同町三六番四号先路上までの距離は約二〇〇メートルであること、(7)被告人は逃走の途中で二、三回蛇行運転したことがあつたが、これは被害者を振り落すためよりは、駐車中の車をさけるためであつたこと、(8)前記佐賀運転の車は適当な間隔をおいて進行しており、被害者が振り落された場合にこれを轢くおそれはなかつたこと、(9)本件現場付近における交通量は深夜のためさほど多くなく、とくに、井の頭通りは一方通行の道路で、夜間のためか自動車の交通量は比較的少なかつたこと、(10)本件現場はアスファルト舗装の平坦な道路であること、(11)被告人は、本件犯行現場から新宿に出て、甲州街道を経て杉並区下高井戸四丁目九番九号先路上まで逃走したが、自己の犯行が気になり、車を同所に駐車したまま、渋谷にもどり、会社の上司である高橋武男につきそわれて同日午前三時三〇分ころ渋谷警察署に自首したこと、などの諸事実が認められる。そして、右の諸事実によれば、被告人は、判示第一の事故を起こした直後、被害者から右事故について話し合うため降車を求められるや、酒気帯び運転であることと右事故の原因がもつぱら被告人の側にあることなどから派出所に同行されると処分を受けることは必定と考え、とつさにその場から逃走しようと決意するに至つたものであつて、被告人において、被害者が自車助手席左側のドアの取つ手を握つたまま車にひつぱられるようにして大またで走つているのをバックラミーで認めながら加速した際には、加速することによつて被害者が手を放し、あるいは被害者を振りはなせるであろうと予想していたものと認めることは必ずしも困難ではないが、それ以上に被害者を路上に転落させて死亡の結果を招来するかも知れないことまで認識して加速したものと認定するには、なお疑いが存するものといわなければならない。もつとも、被告人運転の車の助手席にいた同僚の大武明の司法警察員に対する供述調書中に「助手席から女の人の片腕をつかみ、落ちないようにしつかり押えながら、被告人に対し『早くとめろ。女の人が車にぶらさがつている。落ちたら大変だ。死んでしまうぞ』と大声で言つた」旨の供述記載があるけれども、被告人において、右大武のどなる声を聞いているが「死んでしまうぞ」というようなことを聞いた覚えはない旨を述べているので、右大武の供述記載も、前記認定を左右するに足るものとは認められない。さらに、前記認定の諸事実にてらすと、被害者が路上に転落した際、身体を強打して相当の負傷をするであろうことは容易に推認しうるところであるが、本件の場合、一般的にいつて、被告人運転の自動車または後続車によつて被害者が轢殺される危険性は比較的少なかつたものとみることができるし、また、路上に身体を強打した場合でも、それによつて死の結果を招来する蓋然性が高度であつたと断定することにも躊躇せざるをえないのである。

したがつて、被告人の未必的殺意を肯定する供述があるからといつて、それが犯行当時における心理状態を正確に述べているものとしてたやすく措信することはできないし、他にこれを認めるに足りる的確な証拠は存しないので、結局、判示のとおり傷害の事実を認定した次第である。

(傷害罪に道路交通法七二条一項前段の救護義務違反の点が吸収されないとした理由)

一、前掲各証拠によると、被告人は、(イ)昭和四六年八月一日午前零時三〇分ころ、東京都渋谷区宇田川町二七番四号先道路で、運転中の普通乗用自動車を一時停止後、左折のため発進した際、自車の左側を並進していた佐賀胤文運転の普通乗用自動車の右側前部フエンダー付近に衝突させて同車を損壊する交通事故を起こしたが、(ロ)その直後に、そのまま運転を続けて同町二六番先交差点を左折して逃走し、同日午前零時四〇分ころ同町二九番二号先道路で、駐車車両や対向車両があつたため一時停車した際、(ハ)前記佐賀胤文の妻有子から、右物損事故につき話し合うため降車を求められるや、これを無視して発進し、(ニ)同町二九番八号先交差点を左折して、井の頭通りを西進し、甲州街道を経て同都杉並区下高井戸四丁目九番九号先路上まで運転して逃走したことが認められる。したがつて、右(ハ)の発進行為は、(イ)(ロ)および(ニ)の車両の運転行為と連続した一連のもので、車両による交通の一環をなすものとみられるばかりでなく、右自動車を発進させた際の被告人の意図は、当初から車両の運行を犯罪の手段として利用することにあつたわけではなく、事故現場から車両を運転して逃走することにあり、ただ、その目的を遂げる過程でやむをえず傷害の故意を生じたものにすぎないことが証拠上明らかであるから、本件傷害は道路交通法七二条一項前段にいう「車両等の交通による人の死傷」にあたるものといわなければならない。

二、ところで、道路交通法七二条一項前段の規定は、交通事故における被害者の救護および交通秩序の回復等緊急を要する応急措置を講じる義務を定めたものであるが、右の義務を課する目的は、もつぱら同法一条にいわゆる「道路における危険の防止」と「交通の安全と円滑」に求められることは同法の解釈上明らかである。したがつて、同法七二条一項前段にいう負傷者の救護も、自動車運転者等に対し、右の道路行政上の目的を達成するための方法として課せられているものと解することができるから、同条項にいう人の死傷の結果を発生させた原因行為については、車両等を運転する者に故意過失を問う必要はないものといわなければならない(大判大正一五年一二月二三日刑集五巻五八六頁、東京高判昭和三七年一〇月八日東高判決時報一三巻一〇号二三九頁、大阪高判昭和四四年一月二七日刑事裁判月報一巻一号一頁参照)。もつとも、同条項前段の規定のうち、負傷者の救護義務を命じた点については、これを純然たる行政的義務とのみ解することには問題があるが、少なくとも、本件のように、車両を運転進行することにより事故現場から逃走する目的を遂行する過程で、やむをえず傷害結果発生を認容した場合には、もともと、傷害は車両の交通に付随的な望まれない結果にすぎず、あらかじめ計画されていたものでも、あるいは当初から意図されていたものでもないのであるから、過失行為により人の死傷という結果が発生した場合と同様に、なお、被告人に即時反省の機会を与えてその規範意識の覚醒を期待し、それによつて救護義務をつくしたときは可罰的評価を減ずる途が開かれているものと考えても、何ら不合理ではないといわなければならない。したがつて、本件においては、被告人につき傷害罪の故意が認められるにもかかわらず、別個の規範上の要請として前記救護義務違反の点も成立すると解するのが相当である。

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為は道路交通法七二条一項後段、一一九条一項一〇号に、判示第二の所為は刑法二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号に、判示第三の所為は道路交通法七二条一項前段、一一七条にそれぞれ該当するところ、所定刑中いずれも懲役刑を選択し、以上は刑法四五条前段の併合罪なので、同法四七条本文、一〇条により最も重い判示第二の罪の刑に同法四七条但書の制限内で法定の加重をし、その刑期の範囲内で被告人を懲役一年六月に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数のうち九〇日を右の刑に算入することとし、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文を適用して全部これを被告人に負担させることとする。

よつて主文のとおり判決する。

(内藤丈夫 竹重誠夫 原田敏章)

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